突如駆け出した私に、一瞬闇が怯んだ。
蝙蝠のように分裂した影が、私の歩みを止めようと襲い来る。
異端からは絶えず奇怪な音が漏れていたが、やはり言語として認識できなかった。
『―――――――』
彼が私を呼ぶ声が聞こえる。
待っていて、今そこに行くから。次こそ助けてみせるから。
『おいでおいで、私を助けておくれ。花が手に入れば、私は蘇る』
『アルトメイデン、高貴な花よ。今こそ私に、その魂を捧げておくれ』
影は私の身体にまとわりつき、影踏みのように足を引っ張る。
石のように重くなった身体を引きずりながら、迫り来る影に負けないよう前へ進む。
四つん這いになり、地面を抉り爪が剥がれても止まるわけにはいかない。
メアリ「もう、嫌なのよ」
メアリ「だって……、このままじゃ繰り返しじゃない」
大人の言いつけを破ったあの日。16の誕生日を控えた惨劇の日。
そして今――私は何度『彼』を失ったらいいのか。
固い意志を悟ったのか、両足に感じていた枷のような影が急激に弱まった。
メアリ「くぅ……っ!」
あと少し。あと一歩なの。
もう少しであなたを救える。
メアリ「さあ、こっちへ手を伸ばして!」
『苦しい。苦しい。君が愛おしくて胸が張り裂けそうだ』
『ああ、私を救っておくれ、愛しい花。私の手を取り、契りを交わそう。
魂の契約を結び、二人きりで永久に生きよう』
互いの指先が触れようとしたその刹那。
『――メアリ――』
その時聞こえたのは、誰の声だったのか。
忘れかけていた陽だまりのような――ひどく懐かしい声色だった。
『メアリ……、よく聞いて。そして思い出すんだ』
『あの日、私は君に言ったはずだ。大切な君を思い、願った』
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
――あの日。
メアリ「手を、手を伸ばしてオーギュスト!」
オーギュスト「……っ、メアリ……っ!」
オーギュストは、必死になにかを伝えようとしていた。
『彼を救いたい』――その一心で私はひどい思い違いをしていたのだ。
目の前で起きていた彼の葛藤に気づかず、その真意を聞き逃していた。
オーギュスト「メアリ……、お願いだから、私の手を――」
―――
取っては、いけないよ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
夜明けと共に異端は消え、中庭に朝日が差し込んでいた。
横たわり、空を仰ぐ彼の隣に座り込む。
胸に大きな風穴が開いていた。
がらんどうになった隙間から血の一滴も流れないのが、彼が人間ではないなによりの証拠だった。
メアリ「ごめんなさい。ごめんなさい。私が悪かったのよ。昔からあなたを困らせてばかりだわ」
涙が頬を伝う。
泣き虫の私をなぐさめてくれるのは、いつだってあなただった。
うれしい時、寂しい時、いつだってそばにいてくれたのを知っている。
『メアリ……、お願いだから、私の手を取ってはいけないよ』
あの時だって、私を護ろうとしてくれていたんでしょう。
異端に飲み込まれながらも、私を逃がそうとしてくれた。
いつもそうよ。自分はそっちのけで、あなたは私のことばかり。
メアリ「オーギュスト」
10年前、あなたは死んでしまったと思っていた。
ずっと誤解していたの。
血に濡れた悪魔と蔑み、幼なじみを異端と認めたくなかった。
メアリ「ちゃんと見ていなかった、私が悪いのよ」
魂の死を前にして、手遅れになる今この時まで気づけなかった。
メアリ「あなたは、ずっとそこにいたのね。オーギュスト」
オーギュスト「――――」
オーギュスト「……ようやく、名前を呼んでくれたね」
それは近頃の仮面のような笑みではなく、心から安堵した微笑みだった。
メアリ「私、ずっとあなたを助けたかったの」
オーギュスト「私だって同じだよ」
オーギュスト「君が大切で……、君を傷つけるものすべてが許せなかった」
その結果こそ、村の惨劇。
彼の行動はすべて私に基づいていた。
16の誕生日を控えた日、突如領主から求婚されたことで異端審問を受けることになる。
同時期に村で異変が起こり始め、不安を抱えた人々の矛先は私へと向けられた。
教会と村との休戦が約束された頃、東の伯爵と名乗る貴族が現れ、再び村を恐怖へ陥れた。
私の身に降りかかった災厄が、必死に理性を保とうとする彼の均衡を崩してしまった。
メアリ「どうして、私なんかのために……」
オーギュスト「君を愛しているから」
メアリ「……っ」
オーギュスト「なんだい、その顔は。私が信じられない?」
メアリ「そうじゃない、違うわ。少し……驚いただけよ」
オーギュスト「君はもう少し自分の魅力に気づいたほうがいい。
少し周りを見れば好意を寄せる男ばかりだったはずだよ」
メアリ「意識したことないもの。私にとっては……、オーギュストとヴィクトルしか見えなかったわ」
オーギュスト「それは、友人として?」
メアリ「ええ」
オーギュスト「はは……、結局勝負はつかなかったか」
メアリ「……なんの話?」
オーギュスト「どちらが君と一緒になれるか、ヴィクトルと勝負していたんだ。結果は、見事な引き分けだったね」
彼はひとしきり笑うと、呼吸を整えた。
オーギュスト「私はずっと疑問だった。君を愛している。君がほしい。君と一緒になりたい。
でもそれは、本当に私の意思なんだろうか?
ずっと……、この気持ちがどこから湧くのかわからなかった。
あの日、私の身体に入り込んだ影。私の中に巣くうもう一人の私が、君を執拗に求めていた。
君を愛しいと思う気持ちが私のものだと証明できなかった」
密かに持っていた恋心が、最悪な形で異端と同調してしまった。
異端に狙われた私を救おうと、オーギュストはひとり耐えてきたのだ。
メアリ「私が悪いの。私が領主様のお城へ行きたいなんて言ったからよ。
何度謝っても許されないけれど……ごめんなさい」
オーギュスト「気に病むことはないよ。当時、知識欲に駆られ判断を誤ってしまった私にも責任の一端がある」
オーギュスト「異端によって私の心臓は侵されてしまった。
どのみち完全に人間には戻れなかっただろう。
崩壊しつつある魂で、ここまで生きられたのは奇跡のようなものだ」
オーギュスト「メアリ、もっとこっちに来てくれ。目がかすんで、よく見えないんだ」
オーギュスト「魂は、どこにあるのだろう」
穴の空いた胸をさする手は、なくなった心臓を探していた。
オーギュスト「ここにあると思ってたんだけどね」
メアリ「……オーギュストにも、知らないことがあるのね」
オーギュスト「当たり前だよ。謎を解明していくことは、私にとって生きがいだった」
メアリ「そしてそれを教えるのがとっても上手。だって、私の先生だものね」
オーギュスト「ああ、君は可愛い私の生徒だ」
オーギュスト「そうだ、最後の授業をしよう。問題はひとつだけ。少し難しいかもしれない。
核となる心臓を失った私は、人間でも異端でもない。私は、なんだろうか?」
メアリ「なぞなぞみたいね。でもすごく簡単だわ」
メアリ「オーギュストは、オーギュスト。今までも、これからも、私の大切な人よ」
オーギュスト「メアリ……」
メアリ「正解でしょう、先生?」
オーギュスト「ああ……、永かった。今なら心から言える。
もう一人の自分ではなく、私の言葉として君に伝えられる。
信じてくれるかい? メアリ……、聞いてくれ」
オーギュスト「君は大切な幼なじみ。可愛い生徒。なにより大切な愛しい女性。私は、君を愛しているよ」
『愛している。メアリ』
メアリ「――――」
メアリ「ありがとう、オーギュスト」
血の通わない手のひらをあたたかく感じたのは錯覚なのだろうか。
大きな手を握り返すと、彼はそっと微笑んだ。
オーギュスト「……君を護ろうと力を求めた結果、この身は乗っ取られ理性を失った。
君を傷つけないよう選んだ選択が、この両手と私の手を取った君まで汚してしまった」
オーギュスト「もし過去に戻れるとしたら。もう一度やり直しがきくのなら……」
オーギュスト「メアリ、今度は君の手を――」
メアリ「私は次だってオーギュストの手をつかむわ」
メアリ「振りほどかせない。覚悟しておいて。私は絶対逃がさないから」
だってそれが、唯一私が望んでいたものだから。
オーギュストは予想外の発言に目をまるくし、かなわないなと降参した。
オーギュスト「日差しがまぶしいね……」
目を細め遠くを見つめる瞳は、かつて過ごした私たちの楽園を夢想しているのかもしれない。
オーギュスト「すまない……」
それは誰への謝罪なのだろうか。
三人で過ごした花畑はすでにない。決して私たちには戻れない場所となってしまった。
しかし――この場でそれを告げる必要はない。
せめて彼の魂の行き着く場所が、あの陽だまりであればいいと願った。
指先で震える目蓋を閉じさせる。
メアリ「おやすみなさい、オーギュスト」
オーギュスト「ああ、おやすみ、メアリ」
オーギュスト「目が覚めて、君がそこにいてくれたら……私は幸せだ」
Auf Wiedersehen――
最期にそう呟き、彼は陽だまりの中に溶けていった。
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そして私は悟った。
彼の死を、幾度となく見送ったことを
思い出した。
これが贖罪の後に待っていた終焉。語られることのない幕引きなのだと。
ああ、私はまたしても彼を救えなかったのだ。
神を捨てた私に、奇跡を信じるだけの資格はない。
ならば自力で手に入れなければならない。
必ずこの手でつかみ取ってみせよう。
次こそ、必ず――
私が取りこぼした宝物。愛しい人たち。
大切なものを取りこぼさないために。陽だまりをなくさないために。
偶然を必然に変えるまで、私は何度だって立ち上がる。
未来永劫繰り返される悲劇を、百度でも万度でも演じてみせよう。
だからお願い、待っていて。
私の愛した幼なじみ。
あなたも、必ず、救ってみせるから――
メアリ「どうか……私たちの永遠を信じて」
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3章 「永劫回帰 ―Ewig Wiederkehren―」 END
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