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1章 「愛しい花 ―Eine geehrte Lilie―」
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彼の様子がおかしくなったのはいつからだろう。
オーギュスト。私にとって、やさしいお兄さんのような存在。
大切な幼なじみ。
冷たい地下牢で一晩を明かそうとしていたあの日。
彼は両手に抱えきれないほどの花束を持って現れた。
いつもどおりのやさしい微笑みを浮かべながら、冷たい石の床に花を散りばめて美しいと言った。
――それが、彼に違和感を覚えた初めの日だった。
メアリ「オーギュスト……」
いつから彼は変わってしまったの?
ヴィクトル「そんなぼけっと歩いてると転ぶぞ」
メアリ「ヴィクトル」
俯いていた顔を上げると、偶然かめったに人前に現れない幼なじみが立っていた。
メアリ「ぼうっとなんてしてないわ。私は考え事をしていたの」
ヴィクトル「同じだろ。前を見てないからこける」
決して呆けていたわけではないが、注意力散漫という意味では同じだろう。
メアリ「平気よ、子供じゃないんだから」
ヴィクトル「どういう理屈だよ」
メアリ「転んでも起きあがれるという話よ」
ヴィクトル「けがしてからじゃ遅いって話だ」
メアリ「男の人には名誉の傷というのもあるらしいけれど?」
ヴィクトル「お前は女だろ」
メアリ「それもそうね」
ヴィクトル「ふざけてるのか?」
メアリ「いいえ」
ヴィクトル「ならそのにやけた顔をどうにかしろよ」
メアリ「それは難しいわ。だって久しぶりの幼なじみとの会話が楽しいんだもの」
ヴィクトル「なっ……うるせえよ」
からかっているつもりはないが、盛大にため息をついてくれた彼がおかしかったのは事実だ。
メアリ「ごめんなさい。ヴィクトルは心配してくれただけよね。ありがとう」
ヴィクトル「勘違いするなよ」
メアリ「違うの?」
ヴィクトル「いや、そうじゃねえけど」
メアリ「そっか」
ヴィクトル「だから違う」
メアリ「もうわかったわ」
ヴィクトル「だから逆だって――ああ、もういいっ」
そう吐き捨てながら髪をぐしゃぐしゃにしてしまう。
メアリ「だめよ。せっかくのきれいな毛並みが台無しだわ」
ヴィクトル「毛並みってお前、俺は獣かよ……って、どさくさにまぎれて触ろうとするな」
メアリ「残念」
素直じゃないのは昔からだけど、反抗期の弟を見ているようで微笑ましい。
私たちは自然と横に並び、教会までの道のりを歩く。
メアリ「それじゃあ、さっきの話の続きだけど……、私だってヴィクトルが心配なのよ」
ヴィクトル「俺が?」
数年前一人で村はずれに移住し、今ではほとんど顔を合わせることもない。
子供の頃から愛想はよいと言えず、人との繋がりを重んじるような性格とはいえなかったが、
それでも今よりよかった。
大人になっただけと本人は言い切るが、それは大きな間違いだと思う。
大人ならば、大人だからこそ『繋がり』の大切さを知るべきだ。
他者と線を引き、壁を作るような生き方は孤高の獣だけで十分だ。
メアリ「ヴィクトル……」
彼は不安定だ。
孤独を好み、しかしどうあっても獣になりきれない。
王者の獣というより、群れに取り残された狼のような印象を与える。
ヴィクトル「なんだよ」
メアリ「私は心配なの。あなたが……」
メアリ「あなたが転ばないか心配。男の子ってすぐに無茶をするから」
ヴィクトル「お前、なあ」
させてるのは誰だよ、と小声で抗議されたが、そんなものに触れるのは地雷と思えた。
呆れ顔のヴィクトルに笑いかけると、彼の頬もほんの少しばかり緩んで見えた。
私たちの関係性を表すならどうなるだろう。
友人? 私たちの間にあるのは友情か?
それも少し違う気がする。
彼は友人であって、時に家族のようなものだ。
肉親のいない自分にとって、幼い日の多くの時間を誰よりも共に過ごした。
ああ、だからこそ幼なじみ。
修道女としての自分に偽りはないが、彼らの前ではそれとは別の本当の姿をさらしてしまう。
神に身を捧げた者でなく、普通の少女として振舞える。
これほど気が置けない相手は他にいない。
彼ら――ヴィクトルと、オーギュスト。
ふと視界に入った民家の窓辺に白い花が飾ってあった。
手入れがされていないのか、茎葉はしおれ、花弁の大半が落ちていた。
摘み取られた花は、愛情を以って世話を焼かねばすぐに枯れてしまう。
――あの地下牢の花も同じ運命をたどったのだろうか。
ヴィクトル「――おい」
ヴィクトル「……どうかしたのか」
急に立ち止まった私を不審に思ったヴィクトルが顔をのぞきこむ。
メアリ「ごめんなさい、なんでもないの」
なんでもない。なんでもないはずだ。
あの日のことは、すべて私の気のせいで。
幼なじみの心配をするのは当然。
大切な人だからその変化に少し過敏になっているだけ。
だから――
だから、なんていいわけにしかならない。
小さい頃から知っているなら、その異変に真っ先に気付いてあげるべきだった。
それが、私の人生最大の間違い。
ほんの小石ほどの違和感がガラスを崩れるように大きくなっていることに、気づけなかった。
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